純情な動機
文武両道をモットーとするこの海南大学付属高校において部活動に勤しむ者には、二つの水曜日がある。
一つは完全自由の放課後。付属高校では文系・スポーツ系を問わず、水曜の放課後は部活動が許されない。授業の終了する15時半を以て、彼らは一切の学校活動から開放される。
そして残る一つは、特課と呼ばれる特別補講だ。水曜日の放課後にのみ行われるこの補講は、定期テストで赤点を取った生徒に次の定期テストまでの間、例外なく課せられる。
つまり、赤点を取らなければ、週に一度の自由な放課後を満喫できるという事だ。これは、"常勝"を課せられ、日夜練習に明け暮れるバスケ部員にとっては、砂漠の中で出会うオアシスに等しい価値がある。
入学3ヶ月目にして、大方の予想を裏切らずこの特課送りとなった清田信長は、何でオレだけがと臍を噛んだ。古文でわずか2点足りなかったばかりに、彼は学校内で"妖怪"と呼ばれる定年間際の老教師の、お世辞でも楽しいとはいえない補講に、貴重な放課後を費やさねばならない。
「たった2点!2点ですよ!!ちょっとおまけしてくれてもいいじゃないっすか〜。」
練習後の部室で着替えながら清田が不平を漏らすのを、周囲は笑って聞き流す。
今回の学期末テストで特課送りになったのは、バスケ部の中では清田だけだった。練習量の多いバスケ部員は当然時間拘束が長い。だからこそ、部員には暗黙の了解がある。曰く、赤点だけはとるなよ、さもなくば俺達に楽しい高校生活の1ページはないぞ、と。
「お前、中間テストでも古文は首の皮一枚でセーフって言ってたろ。苦手なら何でもっと準備しとかないんだよ。」
「2点差でも10点差でも、ダメなもんはダメだな。」
「1点差でもIH行けなかったチームもゴマンとあるからな。」
「妖怪の授業はさぞ眠いだろうな。ま、がんばれや。」
苦笑と揶揄の混ざった先輩達の激励を受けつつ、それでも清田は憤りを抑えられない。
「大体、古文なんて将来どんだけ役に立つんですかね?昔の言葉勉強したって、なーんもならんじゃないっすか。無駄ですよ、無駄!」
「・・・じゃ、お前、英語よかったのかよ?」
「英語は余裕っす!赤点まで、まだ10点ありましたから!」
踏ん反り返った清田の自信満々なその言葉に、部室は爆笑の渦に呑まれた。
「ダメだ、コイツは。」
溜息混じりに武藤はそう言って、部室を後にしようと扉を開ける。そこに、監督と練習内容の打ち合わせをしていた主将の牧が戻ってきた。
「おう、おつかれ。」
「ああ。」
声をかけて道を譲ると、牧は屈託無く笑って武藤の横を抜け部室に足を踏み入れる。軽く片手を上げる仕草は、牧なりの感謝のサインだと、チームメートになって直ぐに解った。コートの中では厳つい名称で呼ばれる主将は、オフコートでは拍子抜けする程に温厚な男で、賑やかな部室内の雰囲気に、どうしたんだと興味を示す。
「牧さん、聞いてくださいよ〜!」
「ああ、牧、やめとけ。こいつの話聞くのは時間の無駄だ。」
ここぞとばかりに牧に訴える清田を呆れたように見て武藤はそう言ったが、おそらくその場に居た部員の全てが親身になって聞いてやる牧の姿を想像しているだろうと思う。案外、面倒見のいい奴だから。
案の定、頼れる主将は清田の訴えを相槌を打ちながら真面目に聞いていた。
「お前、今古典の授業で何を読んでるんだ?」
「へ?」
突然発せられた牧の質問に、清田がええと、と宙を眺めた。
「ああ、確か・・・源氏物語、かな?」
かな?じゃねーよ、と笑う周囲には目を呉れず、ロッカーを開けて着替えを取り出しながら牧は清田に尋ねる。
「面白いか?源氏物語。」
「もう全然。一体、ありゃなんの話っすかねー。大体、大昔の女の書いた話なんて、オレ全然興味ねーっす。」
「そうか?俺は結構面白いと思ったぞ。」
怪物と呼ばれる男には今一つしっくり来ない感想に、一瞬部室が静まった。
「あれは、要は昔の貴族のお嬢様連中の実態を赤裸々に綴った話だろ?光源氏なんて、見方によっちゃかなり悪い男だ。二股も三股もかけ放題、そのくせマザコンで、挙句の果てに、自分好みに育てる為に10歳そこそこの女の子囲ったりするんだからな。そりゃ、生霊も取り付くはずだ。」
16歳の青少年にとっては若干刺激的な言葉の羅列に、そうなんすか、と清田は宮益に尋ねる。バスケ部きっての秀才と呼ばれる宮益は苦笑しながら答えた。
「まあそういった理解もあるかもね。かなり偏ってる気もするけど・・・。」
「なんか、そう聞くとちょっと印象ちがうなあ・・・。」
「本気で全編読もうと思ったら大仕事だぞ。でも教科書は有名なエピソードをわざわざ抜き出してのダイジェスト判だからな。ある意味、得だ。」
そして、軽く笑って清田を見る。
「その辺の週刊誌や連ドラよりよっぽど面白いぞ。」
じゃお疲れ、と言いながら牧はシャワー室へ消えた。
(あれは、確信犯だね。)
つい先程の会話を反芻しながら宮益はぼんやりとホームから見える暗い海を眺める。
清田の性格を考えると、がんばれとか、どの道やらなきゃならんのだから、といったような真っ当な激励は通用しない。部員を鼓舞してモチベーションを高めることを宿命付けられた我がチームのキャプテンは、だからこそ正攻法に頼らず別のアプローチを取ったのだろう。
どのようなきっかけでも、自発的に興味を持って始めることが成功への近道なのだと、高校でバスケを始めた宮益は身にしみて知っていた。
(・・・ま、成功したかどうかは解らないけど。)
最寄の駅で電車を待ちつつそんなことを考えていると、少し遅れて牧がホームへやって来た。おう、と声をかけ、ドサッと重そうな音を立ててスポーツバックががっしりとした肩から落とされる。
「意外だったよ。」
隣に立った24cmの身長差を見上げながら、宮益がそう言うと、先程までの自分と同じように宵闇の海岸線を見ながら、そうか、と牧が答えた。
「牧って、ああいう事、言いそうにないからさ。」
「ああいう事って、なんだよ。」
若干決まり悪そうに、帝王は笑う。
宮益と牧は、練習中に話すことは殆どと言っていいほど無いが、こうして駅などで当てなく話すことが偶にあった。傍から見れば奇妙な組み合わせだろうと宮益は思う。が、牧は与えられる評価や憧憬や嫉妬、そういった他人の目に恐ろしく鈍感というか無頓着な男で、宮益が初心者で応援席に居た時も、ベンチ入りした時も、一貫してその態度が変わることは無かった。同じ目標を持つ仲間として、全てのチームメートを同等に扱う。その気風はじわじわとチーム全体に浸透していて、今となっては、レギュラーメンバーを尊敬することこそあれ、自分を卑下することはない。宮益にとって、バスケを始めての一番の変化は、それだった。
コートに居ても離れていても、対等。そんな人間関係をチームメートと築けたというだけで誇らしいことだと思うし、同期も後輩も含めて宮益にとってバスケは大事な存在だ。こうやって、何気なく会話する一瞬に、改めてそんなことに気付く。
電車はまだ来る気配すらない。波の音と、海岸線を時折走っていく車のエンジン音だけが聞こえる。
「俺、昔、本って嫌いだったんだよな。」
突然落とされた言葉に、へえ、と宮益は意外そうに答えた。
牧は、こう言っては失礼かもしれないが、隠れた読書家で、遠征の移動中に携帯でメール打つ部員や雑談している部員に混じって、静かに文庫本を開いている姿を宮益は何度も見ていた。今日のように、偶々駅や電車で見かけた彼が、読書中だったということも一度や二度では無い。
「親父が、やけに真剣に読んでる本があってさ。聞いたんだよ、どんな話かって。」
中学2年の時かなあ、と言いながら牧は続けた。海辺からやってくる潮風が、日焼けした額にかかる髪を柔らかく揺らす。
「そしたら親父がさ、裏切りと、殺人と、近親相姦と、復讐の話だ、って。」
強烈だろ、と言って牧は宮益を見た。
確かに、刺激的なキャッチコピーだ。少なくとも、健全な男子中学生にはそうだろう。
宮益は聞いた。
「何だったの、その本?」
「・・・ハムレット。」
宮益は一瞬絶句する。有名といえば、これほど有名な古典文学はない。
「・・・で、読んだの。」
「そりゃもう、夢中で。」
勿論、和訳でだぞ。
微妙な笑いを唇の端に浮かべつつ、そう付け加えて、牧はぐっと伸びをした。何処かの間接がごき、と鳴る。
「ま、動機なんて、何だっていいんじゃないか?下心でバスケ始めたヤツだって山程居るぜ。マネージャーが可愛いとかな。」
「牧はどうだったの?」
今度は問われた牧が少し黙った。線路の先から、カンカンと踏み切りの降りる音がしている。視線の端に、赤い光が点滅した。
「・・・さあな。宮は?」
「どうだったかなぁ。とりあえずウチのマネージャーは男だからね。少なくともマネージャー目当てではないよ。」
「そりゃ、そうだな。」
顔を見合わせて笑った。電車が柔らかい光の帯のようにホームへ入ってくると、窓越しに波を照らす月が見えた。
3ヵ月後の中間テストで、清田信長は晴れて特課から開放されることとなる。教材は面白かったが、読経のような補講に付き合わされるのははもうイヤだと、海南バスケ部唯一の問題児はそう言った。
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*Postscript
牧はトップクラスではなくても、そこそこいい成績とってそう。
宮と牧の2人は、書いてて楽しいです。長く続きそうな友情。