優しい雨



鼠色の雲の流れを視界の端でとらえてはいたものの、その急激な拡散にまでは気が回らなかった。
木曜は、外周をジョギング。雨でも、雪でも、霙でも。槍が降っても忘れるな、木曜は走りこみ。 その15kmのランニングを完遂しなければ、例え自主練であってもボールに触ることすら許されない。それは暗黙の了解なので、授業が終わった部員達は、三々五々に決められたルートへと散っていく。 ペースは各自に任せられている。管理する人間も居ないので、実際はサボることも容易だが、そうする者は皆無に等しい。己へ厳しくできる人間しか、ユニフォームを手にすることができないことを、 教えられるまでも無く全員が理解している。そのあたりの意識の高さが常勝・海南の強さの一部もあった。
そんなバスケ部の、ありがたくも無い伝統と慣習に則ってロードへと向かった 一行はその日、ほぼ全員がそのそれぞれの道程の中ほどで雷神の呻きに遭遇することになった。

「清田ぁ、腹がなってんぞー。」
「ちげっ、すよ、カミナリっす、カーミーナーリ!」

遠雷を耳に留めた武藤が背後の後輩にそう声をかけると、荒い息に混じってそれでも必要以上の大声が木霊のように返ってくる。加えて 、やべえ、ヘソに落ちたらマジやべえ、と慌ててシャツをズボンにねじ込んだらしい後輩に、落ちねえよ馬鹿、と大笑いした武藤は、やおらむせ返った。話すか走るかどっちかにしなよ、と宮益が併走しながら、げほげほとむせ返る背中をとんとんと叩いてやる。

ペースは落ちない。湘南の海岸線を横目で見ながら走り続ける。
海は頭上の雨雲を反射するかのように悲しげな色をして、ゆったりとした波状を岸へと返してくる。海上は既に雨に違いない。 雲と海面の間にはカーテンのような幕が、揺れるように蠢いている。
そのうち、一行の頬にも、ぽつりぽつりと天露が落ちてきた。

「きたぁ」
「たんまたんま!!!」
「マジかぁ」

そんな声を上げながら、それでも足は進んでいく。
雨が降ろうが、槍が降ろうが。進んでいくしかないのだ。進むも戻るも同じ距離なら、前進あるのみ。

フラッシュが走るような閃光の後、どおおん、という雷音が響く。呼応するように、細かい雨の粒子が纏まって一行の頭上から降りてきた。

「あー・・・。」

誰ともなく、其々が意味無く声を洩らす。見渡してみても、雨をしのげそうなところはない。もう少し行けば、屋根つきのバス停があるのだが、この時間帯だ。結構な人数がひしめき合っているに違いない。それに、雨が降ろうが振りまいが、 元々汗だくでずぶぬれのような状態なのだ。多少振られても、まあ大したことではない。そういった割り切りというか鈍感さも、またこのチームの良いところであるかも知れなかった。

「牧さーん、雨すよ、あーめー!どっかで休憩しましょうよー!」

先頭を走る牧に、チームメイトになって日の浅い清田が懇願するようにそう叫ぶ。新人にとっては、雨の中走り続けるというのは、驚きの展開のようである。が、 雨に濡れてぴったりとTシャツが張り付いたキャプテンの背中から応えはない。ひっきりなしの雷鳴が続いているだけだ。

何となくその先を続けられず黙り込んだ清田に、少し後ろを走っていた神が追いつき、声をかけた。

「今止まると、体の熱が奪われて、寒くなっちゃうだろ?風邪ひくかもしれないから、走りぬいた方がいいんだよ。」
「あ・・・なるほど。」

得心したという表情で清田はそう呟き、一端ヘアバンドを顎の下まで下ろした。ぐしゃぐしゃと長い髪をかき回し、やおら改めてきりりとヘアバンドを上げ、濡れた髪を纏める。その目には、無茶をやることへの陶酔と、新しい挑戦への闘志が漲っていた。
それを横目で見ながら、神が目を細めつつ、内緒話をするように小声で続ける。

「それに、この時期の雨って温かいだろ?牧さんランニング好きだからなあ・・・きっと止まんないよ、にわか雨くらいじゃ。」
「・・・ですね。」

入部初日から、武藤曰く、"牧にへばりついている"清田は、牧が基礎トレーニングに大半の時間を割いていることを既に重々承知していた。
海南バスケ部である以上、雨くらいでthe endにしてはいけないのだ。そうなのだ!と、解ったのか解っていないのか、他人から見れば非常に不可解なところで納得するこのやんちゃな後輩 を皆、憎からず思っている。

黙って走っていた牧が、振り向かずに声をかけた。

「清田。」
「はいっ!」
「ラストスパート!」

尊敬する先輩にそう告げられた後輩は、一瞬きょとんとしたものの、すぐにキラキラと瞳を輝かせ、声を張り上げた。

「ぅおっしゃー!」

リードを解き放たれた子犬のように、がむしゃらにペースをあげ、併走していた神、その先にいた武藤・宮益、高砂、そして牧を追い抜いていく。
はしゃいでいるといっても過言ではないその様に、見送ったそれぞれが、それぞれに笑みをこぼした。

雨はそんな彼等を包むように温かく降りしきる。
武藤がぐんぐんと離れていく清田の背中に叫ぶ。

「清田、俺ホットココアな!」

間髪入れずに神が続く。

「ノブ、ブラックの無糖よろしくね。」
「僕、ウーロン!」

宮益が雨で完全に曇ってしまっている眼鏡をずり上げながらそう言えば、それまで無言だった高砂がぼそりと同意を示した。

「俺もだ、清田。牧は?」

そう問いかけられた帝王は一瞬、ぼんやりと雲の谷間に目線をやって、ぽつりと言った。

「ホットレモン。」
「ホットレモン!?」
「こんな日はホットレモンだろう?」
「おま、ちょ、それ・・・」

その面でそれは犯罪だ、と武藤は疲労した顔を引きつらせながらひーひーと笑う。
笑うことで酸素の供給が低下したのか、やや足元がおぼつかないが、それでもペースの落ちない一群によろよろと付いて行く。これで選択がおしるこドリンクだったら武藤は完全にリタイヤだな、と 牧はそう思った。大して好ましいチョイスではないが、次はそうしてみようとも。
高砂が、牧の選択を告げる声に我に返って見遣れば、それぞれの注文を指を折りつつ受注した子犬は、了解しました、と後ろ向きに走りながら敬礼していた。

「このスーパールーキー、清田信長におまかせ、うお!?」

その瞬間、自称天才ルーキーは大きな水溜りと化した国道を猛スピードで走り抜けたワゴン車から強烈な水しぶきを食らった。
降りしきる雨の中、今度こそ走る続ける彼等の中に、明るい笑いが駆け抜ける。

「んだよ、テメー!海南バスケ部なめんなよ!!」

そう吼える清田の頭上には、晴れない空の谷間からやっとのぞいた、うっすらとした儚い虹の軌跡があった。








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*Postscript
部活中・それも練習中の彼等を書いてみたくなった。
私の部活の記憶の中には沢山のランニングシーンがあります。とにかく走ってたように思う。それが、その時期の自分の姿とちょっとオーバーラップしてます。
ウチの清田は徹底的に海南バスケ部のマスコット的存在のようです。愛されてる後輩の見本のような男。牧は、わかり辛い仕返ししそうな気がするんだよね。それが、彼のささやかな仕返しだと、相手に伝わっているかは別にして(笑)。この男の喜怒哀楽の感性は、案外相当変わってるんじゃない?なんて思ってます。ちなみに次回、武藤は間違いなくリタイアです。