憧憬の本体
(・・・何やってんだかねぇ・・・。)
武藤は目の前の、ぽかりと空いた空間を眺める。
珍しく朝練のなかった春の日の、久々にゆっくり朝寝をして登校したクラス。窓際の、一番後ろの席が武藤のいわば"指定席"だ。
だがその前の席にあるはずの見慣れた背中が、今日はどういうわけか見当たらない。馬鹿が付くほど真面目な男が、一体どうしたことか。
弘法も筆の誤り、サルも木から落ちる。あの男も完璧ではなかった・・・いや、それをいうなら今までよく襤褸がでなかったもんだ。HRの間、武藤はそんなことをぼんやり考えていた。
「・・・で、武藤よ。」
突然かかったその声で、現実に引き戻される。連絡事項を言い終えた担任が、名簿を閉じながら言った。
「お前んところのキャプテンは、どうした?」
「さあ。今日は朝練無かったんで・・・」
知りません、と言おうとしたとき、教室の後ろの扉ががらりと開いた。教室中の視線が、一瞬にしてそちらに集中する。
話題の人物のご登場である。
「・・・遅くなりました。すいません。」
184cmの鍛え上げられた身体に、日に焼けた褐色の肌。柔らかい色をした髪が若干乱れている。
ブレザーを脇に抱え、片方の肩に半分ずり落ちたドラムバック。反対側の手には皮鞄。何時もはきっちりしている襟元とネクタイが緩いその姿から、駅からの全力疾走が伺われた。
「お前が遅刻なんか珍しいな、牧よ。」
すいません、と再度言いながら牧は武藤の前の席に納まった
担任教師も、この件に関してはスルーと決めたらしい。こういう時、牧の日頃の行いの良さと教師からの信任がわかるというものだ。以後気をつけるように、と一言付け加えただけで、HRは終わった。
途端に、ふう、と大きな息をして、牧は身体を反転し窓に背中を預けた。額に汗を滲ますその横顔に尋ねる。
「どうしたんだよ。」
「・・・いや、やばかった。今回は流石に慌てた。」
そう言いながら、牧は額から両手で抱え上げるように前髪を撫で付け、頭の後ろで手を組んだ。そして、天井を眺め、ノートでばたばたと風を送りつつ言う。
「時間通りに、家は出たんだ。」
「時間通り、ってお前今日朝練習なかったんだぞ。」
そうだっけ、と、一瞬惚けたような顔をして武藤に視線を寄越した牧は、まあそれはどうでもいい、と話を続けた。
良くはねーだろ、と一言入れたいところだが、ここは黙ってやり過ごすことにする。
「でだ。いつもの電車に乗って、何時もの時間に着くはずだった。」
「じゃあ、何で遅れるんだよ。」
いつも通り、つまり朝練の時間に合わせて家をでたのなら、少なくともHRの一時間半前には学校に到着するはずだ。それが、何故遅刻するはめになったのか。
「電車の中で、中学の先生に会ってさ。化学の山田先生。バスケ部の顧問だったんだ。」
「へえ、偶然だな。」
ああ、そんなことは滅多にない。先生はとても熱心な指導者で俺に一からバスケを・・・と、黙っていれば話の本筋から簡単に離れてしまいそうな牧を慌てて誘導する。3年間という時間は伊達じゃない。
「で、どうしたんだよ、その先生。」
うん、と頷いて牧はノートを机の上に戻し、ネクタイを締めながら言った。
「その先生に牧、試合か今日は、って聞かれたんだ。」
「・・・なんで?」
その教師の質問の内容が、あまりにも突拍子が無いような気がして、武藤は机の上に両肘を付き、掌に顎を乗せた。牧は、そうだろ、といった顔で答える。
「いや、俺もそう思って言ったんだよ。いえ、今日は授業です、ってさ。そしたら、」
一瞬間を置いて、海南バスケ部の誇る主将はさらりと言った。
「・・・じゃ、お前、鞄はどうした、って。」
「・・・。」
つまり、目の前に座る大人びた顔したこの男は、今朝、小学生でもやらないような忘れ物をしたらしい。
学生の本分は言わずもがな、学業。その学業関係のものを、一切合財まるごと置いて来た、ということか。
武藤の呆れ顔に気付いたのか、牧は小さく溜息をついた。
「俺は、つくづく学校にバスケしに来てるんだな、って思った。偉そうに、清田の事をどうこう言えないな。」
つい先日、「俺は部活しにガッコに来てるんで、授業中はできるだけ寝てます!」と言った一年坊主を窘めたことを思い出したのか、牧は決まり悪そうにそう笑った。その姿があまりにも深刻なので、武藤は努めて明るく言った。
「ま、アイツとお前は違うだろ。疲れてんだよ、お前。IH予選も近いし。」
「そうかなあ、案外変わらん気がする・・・。アイツとは違う、と思ってた俺の方がタチが悪いかもしれん。」
そんな他愛の無い話をしながら購買部でスポーツウォーターを買うのに付き合っていると、廊下ですれ違った下級生の一団から、小さく黄色い声が上がるのが耳に届いた。
『バスケ部の先輩だー』
『牧先輩、かっこいー』
そんな耳タコの嬌声を聞きながら思う。あの子達は、そのかっこいい牧先輩だって、かっこわるいことも沢山やらかす普通の男だってこと、きっと想像もしないんだろうな、と。
バスケットやってる時の、アグレッシブで、チームをぐいぐい引っ張っていくハングリーな牧しか知らない。
夢見れていいな、君達。でも、影ばかりを賛美して本体を知らないなんてどこか滑稽だ。
完璧にカッコいい試合中のアイツも凄いと認めてはいるが、鞄忘れて学校に来てしまうような牧の方が、武藤は面白くていいと思う。だから、同じスポーツを同じようにやって、それなりの自負もあった自分が、全国区のコイツに嫉妬もせず卑屈にもならずにチームメートやってんだな。そんなことを思いながら、支払いをしている牧に声を掛けた。
「牧、なんか奢ってくれ。」
「なんで?」
「なんとなく。同じのでいー。」
なんだよいきなり、払う前に言えよな、とブツクサ言いながらも「同じのもう一本ください。」なんて、大きな身体で律儀に購買のおばちゃんに頭を下げる"神奈川の帝王"の姿。コートの上の異名が冗談じゃないかと思えるほど、実生活の本人には威圧感も、二つ名から想像されるような尊大さもない。
もしかすると、こいつは帝王とか怪物なんて呼ばれるより、案外"じい"と呼ばれるほうを喜んでるのかもしれない。そっちのほうが、俺にはしっくりくるんだけどな。
その感想は、胸の内にとどめて置こう。3,4年もすれば実年齢がその風貌に追いつく・・・はずだ。その時にでも、教えてやるか。
どんな顔するかな、この"じい"は。
2Lサイズのボトルを受け取りつつ当分先になりそうなその光景を想像して独り声無く笑った武藤を、牧はちょっと気持ち悪そうに眺めた。
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*Postscript
牧は、凡ミスはしないけど、人が考え付かないようなどでかいミスを自覚無くやってくれそう。
彼のイメージと実態のギャップに対する衝撃は年に数回しかコンタクトの無いメンバーの方が大きい(例:藤真とか仙道とか、国体向け選抜で合宿とかしてそうな面子)。牧はバスケの技術より、こういう意外な実態故に愛されるキャプテンならいい。