君の名は
「紳一。」
「お袋か、お前は。」
昼食後の気の置けない仲間との会話に、深い意味や目的などない。20分後には確実にやってくる授業と、
抱き合わせるようにして付随してくる睡魔と闘う為に、辛うじて意識を保っておく為の、いわば場つなぎのようなものだ。
牧と武藤の所属する3−A。窓際の彼らの席ではこの時間帯になると、別のクラスの高砂・宮益も加わって、ちょっとした座ができる。
通路を挟んで隣に座る女子達は、「でかい井戸端会議だね〜」と言いながら、差し入れのお菓子と椅子を
彼らに提供して何処かへ消えていった。それもまた、よくある何時もの光景である。ちなみに、このでかい井戸端は、彼女達に言わせると、
"夢見る後輩に絶対に聞かしてはならない現実"らしい。
そんな言われようをしている男共は、自覚の無いまま今日も呑気に生きたリアリティーショーを展開する。
午後から雨になるらしいなんて想像もつかないほど晴れた青空が、陣取った彼らの制服の白いシャツの上に溢れるほどの日光を降らせるなか、
その面でミルクティーなんて飲むんじゃねえ、と武藤はイチゴミルクをちゅるりと音をさせてパックから吸い上げながら牧にそう言った。
常勝・海南バスケ部。知名度は全国区。そして校内にいたっては、ともするとアイドルのような扱いを受ける
スターティングメンバーの味覚はしかし、意外にファンシーに甘党だった。
「じゃ、紳ちゃん?」
「宮、俺は小学生じゃない。」
「見りゃわかる。」
「いいぞ、高砂。」
鋭く笑って高砂を称える武藤を、牧は恨めしそうにちらりと横目で眺める。しかし、確かにここに居る人間は、
約一名を除いて些か育ちすぎの傾向も在るほどだから、吾がことながら否定もできない。
実際、年齢以上に見られることはあっても、それ以下に見られることは100%と言っていいほどないし、
恐らくは…実年齢が見た目を超える日まで、相当の年数を要するだろう。牧は、損な運命だとそう思うが、
しかし、その不満は向ける場所の無いまま現在に至っている。ある意味、慣れというのも在るかもしれない。習慣とは
恐ろしいものだと独り静かに納得した。
嘆息する牧を見て、武藤が思い出したようにふと聞く。
「ところでお前、シンちゃんなんて呼ばれてたの?」
「小学校ぐらいまではな。地元の奴とかさ、未だに。」
「わ、笑える…。」
その、子供らしい愛称と目の前に座る牧のともすれば色気すらある男臭い容貌のギャップに、よせばいいのにまた笑いの衝動が込上げる。
徐々に三日月のような目になっていく武藤を無視して、牧は続けた。
「結構、恥ずいぞ。この前も、藤沢の駅前でいきなり叫ばれた。」
「それはちょっとイヤだな。」
つい先日、遠征中にたまたま出くわした遠縁の叔母に、「あらちょっと、カズ君!大きくなったわねえ。」
と大声で呼び止められてしまった
身長192cmの高砂は、やや同情しつつ牧に頷く。
その牧は、一瞬遠くを見た後、がくりと頭を垂れる。そして小さく言った。
「挙句にそれを藤真に聞かれた。」
「うわ、災難…。」
こんどこそ、その場に居た全員が、哀れみの目を持って"育ちすぎてしまった男"の筆頭を眺める。神奈川No1のバスケプレーヤー、成績だって悪くないし、
外見も人望もそこそこにあり、ともすれば完璧、できすぎと形容される牧だが、相対的に運は良くなかった。傘を持たずに家をでれば確実に雨が降り、
修学旅行の前には熱が出た。普通ならありえないような組み合わせの不運が、この男には起こる。此処に要る全員が、その歴史を知っていた。
"不幸は単独ではやってこない。束になってやってくる。"
出典は解らないが、含蓄のある言葉には違いない。そこには否定できない現実と普遍の真理が存在する。昔の人は、テレビもネットもなかったが、
現代人よりも多くのことをわかって生きていたのだろう。馬鹿にしてはいけない。牧はそう思いつつ、脳内でリピートする、藤真の"シンチャン、今度の合宿、楽しみだな!"という
声を打ち消すべく軽く目を閉じた。
沈黙を破るように、がらりと教室のドアが開き、クラスメイトが口々に叫ぶ。
「マッキー、高頭チャンが職員室に来いって〜。」
「バスケの後輩が来てるよ、マッキー。」
「マッキー、体育祭の実行委員会放課後だからね〜。」
矢継ぎ早に浴びせられるそれらに、牧は明らかに肩を落としつつ、ちょっと行って来ると場を離れた。
その背中を見送りながら、武藤がぽつりと言う。
「なんつーか・・・、もうこれだけ定着してんだから、いいじゃねえか、"マッキー"で。シンチャンよりゃマシだろ。」
「だよなあ。いきなり変えたいといわれてもこっちも困るよ。」
「ちなみに、なんで変えたいと思ったんだ、急に。」
「マッキーって、迫力ないだろ、ってことらしんだけどさ。」
「あいつ、まだ必要なのか、迫力…。」
「本人がアレなんだから、まあ、多少迫力のない名前の方がバランスがあっていいんじゃね?」
「僕もそう思うよ。」
だよなあ、と残された3人がとりあえず見解の一致を見たところで、予鈴が鳴る。絶妙のタイミングとはこのことだ。
「次、何?」
「ウチは、リーダー。」
「あ、教育実習の菊チャン?かわいいよなあ、あの先生。」
「え?武藤、ああいうのが好み?」
「脚キレイじゃん。清楚っぽいし。」
「駅で彼氏っぽい人と一緒だったぞ。」
「げえ!マジかよ〜。」
大げさに残念がる武藤に、じゃあね、と手を振って宮益と高砂は井戸端を去ると、ほどなくして場所を提供していた女子たちが戻ってきては
口々に尋ね合う。
「あれ?マッキーは?」
「あ、職員室に行ったみたいよ。でも、途中でなんか2年の女子たちに呼び止められてた。」
「マッキー、人気モノ〜。」
「てか、マッキーはNoって言えないんだよね。いちいち、最後まで話聞くしさ。で、自分がしんどい思いするんだよ、後で〜。」
「優しいっちゃ、そうなんだけど。器用そうで不器用っていうか…。」
「や、超がつくほど不器用だね、アレは。間違いなく。」
そんな声をBGMに、武藤はぼんやり考える。
名というものは、親にもらうモンから渾名まで、何一つ自分じゃ思いどうりにならないもんだ。逆にその分、相手側からの感情…それが親愛
の情であれ、憎しみの塊であれ…の一端が見える、最高の方法と言っていい。
(いずれにせよ、アイツの場合は、嫌われてつけられた名前じゃねーよ。)
「牧よお。」
本鈴ぎりぎりに戻ってきた男の背中に声をかけると、律儀になんだと答えて振り返る。
五年後。十年後。大学行って、結婚して、子供ができて…いろいろあって、皺くちゃの、汚い頑固親父になったって。
今のこの毎日の、そんなつまらない仕草まで、俺は、
その名前と共に思い出すに違いないんだ。
そんなことを思いつつ、武藤は振り返ったその浅黒い顔に呟いた。
「…愛されてるなあ、"マッキー"。」
「はあ…???」
「わかんねーだろーな、お前ぇにゃ。」
当分教えてやんねえぞ。
そう言って教科書に目を落とした武藤に、牧は不思議そうにぱちぱちと瞬きをした。
教師が、必要以上にがらりと音を立てて教室に入ってくる。
日直の号令と共に立ち上がりながら、窓越しに鳥が空を横切るのが見えた。
(きっと、そうなるさ。)
結構、楽しみだな。
そう思いながら武藤は、まだまだ現実味のない遠い世界の在り様に少しだけ思いを馳せた。
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*Postscript
牧ってクラスでは、何て呼ばれてるかしらという妄想。
本人はきっと、「マッキーなんてポッキーみたいでイヤだ!」と思ってるんだけど、回りがもういいじゃん見たいな感じで、
牧はきっとバスケとか好きなこと以外は、案外押しが弱くて結局言い出せないし変えれないみたいな状態なら萌えるなと。そんな独りよがりでした(笑)。
うちの武藤は、どんどん哲学者になっていくなあ…。