何にでもなれる
やりたいことと、やれること。
欲しい物と、得れるもの。
青い空と、静かな雨。
現実と、希望と。
全て手に入れたいなんて、無茶だ。
「木下、まあ、ゆっくり考えてみろや。」
そう言って担任は進路指導を記したノートを閉じつつ、さやを見た。
毎月のようにある進路指導のこの時間を、わずらわしいと思うのは自分だけでは無いだろう。付き合わされる教師だって、いい迷惑だ。
海南大付属高校。県下では、それなりに知れた名門校だし、その上に連なる大学だってそれなりに聞こえたレベル。一般入試で狙ってくる他校生もいるらしい。
だから、付属高校でエスカレーターの恩恵を無碍にするのは、もっと上のランクを狙える優等生か、何らかの技能をもって推薦を狙う生徒ぐらいだ。
だから私自身も、今日のこの日まで、大学は海南大と決めていたし、何回書いたか忘れてしまいそうなほどの進路調査票にもそのように書いてきた。
でもその日、私は初めて本心を書いた。
『進路第一希望:西南女子美』
私は、絵ばかり描いていた。絵さえ描いていれば、幸せだった。
高校に入って、遠ざかってはいたが、絵を描きたいという衝動は何時も合った。だから、余暇には時々絵を描いていた。
幼い時は無邪気に見れた夢が、遠くなってきたと感じていた。
賢く生きる、ということと、正直に生きるということの間には不等式しか存在しない。だって、それが現実だもの。
代数幾何も、世界史も、ほんとは興味はありません。でも、普通科の高校生だから。興味があろうとなかろうと、勉強しなくちゃなりません。
でもテスト前、公式を前に頭を抱える親友の桂子が、卒業したら、物理なんて一生勉強しない、だって私文系だもん、と叫ぶのを聞いて、ふと思ったのだ。
大学は、好きな教科を命一杯勉強できるんだ。
なんて、素敵。
そして、海南大に、芸術学部は無いのだった。私の進路希望は、その日180度方向転換した。
担任と話した内容が、頭の中をぐるぐる回る。親にだって理解してもらえるかわからない。親友にいたっては、アンタ馬鹿?、と本気で呆れられる始末だ。
こういうの、なんていうんだっけ。四面楚歌?絶体絶命?呉越同舟、はちょっと違うか…。
考えるだけで疲れてしまって、自然と溜息が出る。すると、ふと影がさした。おう、と声がかかって見上げてみれば、そこには見慣れたクラスメートの姿があった。
「遅いな。」
「うん、進路指導がね…。」
彼は、言葉数の多い人ではないし、社交的でもまるでない。それでも、ある日をきっかけに、時々話しくらいはする。彼は、私に素敵な渾名をくれたのだ。
大きなドラムバックを肩にかるっても傾ぎもしない大きな体で、クラスメイトや部活仲間からは、モアイと呼ばれているらしい彼は、進路指導、という言葉に少し反応したようだ。
「え?木下、エスカレーター…」
「サイオンジです!!」
びし、と人差し指を鼻先に突きつけると、大きなモアイ男はうう、とのけぞった。それが、どこか滑稽でたまらない。可笑しくて、笑いが出た。
「高砂君、自分で言ったことを忘れちゃ困るよ。」
そう言ったら、納得したのかしなかったのか、判然としない微妙な顔で黙り込んだ。
夕日が完全に落ちてしまっても、初夏のこの時間はまだ明るい。
いつもなら部活帰りの学生でそれなりに込み合うプラットフォームが、今日は奇妙にがらんとしている。
ホームから少し見下ろすように、湘南の海が見える。遠くから、浜に打ち寄せる波の音がBGMのように流れた。
「進路、変えたんだ。」
「そうか。」
「いろいろと、思うところがありまして。」
「そうか。」
「…いや、普通、そこはつっこむところだと思うんだけど…。」
あまりに淡々とした味気ない答えに、少しむっとしてそう言うと、高砂君はすまん、と小さく呟いた。
聞いて欲しいという気持ちと、聞いて欲しくないという気持ちが微妙に交じり合って、私は黙った。隣に佇む大男は、ただ、静かに岩になっていた。
スピーカーから、電車が通過します、と告げる機械的な割れた声が響いた。
同時に、ベルがなりだす。どちらとも無く、電車のやってくる方向を見たその時、岩が言った。
『応援する。』
それは、しっかりとした、安心感のある声だった。
私は、振り返ることすらできなかった。ぎこちなく、線路越しの海を見た。
声は、途切れることなく続いた。
『木下、俺にそう言ったろ?IH前に。応援してるってさ。だから。』
そして、モアイ像のような直立不動の大男は、ホームに滑り込んだ電車を見ながら、自分の呟いた言葉にうん、と頷いて見せた。
君は知らない。きっと知らない。
君がそういうのなら、
わたしは、
何にだって、なれてしまうよ。
この一歩を、踏み出さないと。
何ににもなれないんだから。
だから、
「高砂君、あたしね、」
なりたいものが、あるのよ。
通過していく電車の轟音の中、そう叫んだら、
その人は、きっとできると言って、ぎこちなく笑った。
何を、だなんて余計なことを彼は聞かなかった。
ただ私のほうをちらっと見て、やりたいことをやる木下を、俺は信じるとそう言った。
彼の横顔が、優しいオレンジに染まっていた。
そこそこ有名なバスケットマン。クラスメイトで、私に素敵な渾名をくれた人。
愛想もないし、とりわけ格好よくも無い。マメじゃないから、卒業写真を見れば、ああと懐かしく思い出す。そう、その程度。
でもあの日、私は、その不器用で岩のような人から、信じる強さを学んだのだ。
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*Postscript
拙作"感謝のカタチ"、続編です。
恋というには派手で無い。愛というには熱くない。でも、消えない炎。
10代の恋愛は、小さな刺激の積み重ねの上にあってほしい、とそう思います。何年かたって、大人になって、切なく抱きしめるようなそんな季節を、いつか書きたい…。