独りきりでは遠すぎる夜明け



薄明かりの残る夕暮れの病院は、それだけでちょっと物悲しい。そこそこの規模と名声を持った海沿いにあるその病院のロビーは夕方にも関わらず込み合っていて、にも拘らず三井の訪れたその病棟だけは奇妙なほど静かで、廊下を行き交う人も少ない。
病棟を隔てる渡り廊下を越えただけで、世界がこんなに違ってしまうなんて。だから、病院は嫌いだ。

(・・・なにびびってんだよ、俺は。)

明確な理由の無い不安ではない。が、それを振り切るように、ぺたん、ぺたんと乾いた音を廊下に響かせながら、申し訳程度に突っ掛けたスリッパで目的の場所へ向かう。
残暑特有の、深い濃さを湛える空の青と、燃えるような夕焼けの融合が、面した窓から三井の横顔を照らした。開け放したままの窓から、潮が香る。冷暖房完備の病院が多い中、窓を開けて空温調節をするなんて今時時代錯誤な、と思わないでもないが、締め切った病室は誰だって気分の好いものではない。

廊下の角を曲がって突き当りの部屋に、三井の後輩が居る。自称、天才バスケットマン。初心者の癖に、馬鹿かお前はと最初は揶揄いもした三井だが、その男の意外な直向きさと裏の無い情熱が、正直少し羨ましくもある。 だから、其奴が背中に怪我を負い、リハビリに集中するようになってから、度々三井はこの病院を訪れいていた。入院中の疎外感、チームやライバルから置いていかれるのではという恐怖にも近い焦燥は自分が一番良く知っていた。 初めてそれに直面している後輩に、お前はチームとつながっているんだと証明してやりたい。

(それでも、腐るときは腐っちまうんだけどな。)

小暮がどれだけ病室に通ってくれたか。それでも、俺は駄目だった。結局、自分が弱ければ其処までなのだ。桜木だって、ああ見えて変な所で繊細だから、誰より淋しいに違いない。だから今日も、この廊下を歩いている。
気休めかも知れないが、三井にはそうすることしかできなかった。

小さな溜息をついて、角を曲がると、見慣れた廊下に、見慣れない姿を見つけた。
壁際にしつらえた味気ない長いすに腰を下ろして、雑誌を読んでいる男。全国大会で、チームを準優勝に導いた、押しも押されぬ神奈川NO.1のプレーヤー。
俺がボンヤリしてる間に、しっかり確実にその座を手に入れた、嫌なヤツだ。

「・・・何やってんだ、テメーは。」

恐らく、親しみのある口調ではなかっただろう。にもかかわらず、声をかけられた男は、驚くでもなく気を悪くするでもなく、 目を落としていた雑誌から軽く視線を上げて人好きのする笑顔をこぼした。

「ああ、三井か。久しぶりだな。どうだ、新チームは。落ち着いたか?」

病院で、それも、滅多に会うわけでも無いのに。普通、驚いたりするもんだろう。
まるで世間話のような気の抜けた回答をされた三井は、多少面食らった。

そういやコイツはコートに立っていない時は、拍子抜けを通り越して周りが引いてしまうほど大らかな奴だと 誰かが言っていた。加えて、"あの仙道ものけぞるマイペース"らしい。それは、確か…練習試合の時、仙道本人が言っていた。 自分で言うか、とその時は笑ったのだが、強ち誇張では無いらしい。
どうやら、自分の周りにはいないタイプの人間のようだ。そして、正直苦手なのだ、こういう奴は。そう思いつつ、三井は言った。

「・・・俺の話を聞け。」
「聞いてるぞ。」
「何やってんだよ。」
「何やってるように見える?」

(…駄目だ、コイツとは会話が成立しねえ。)

あー、と歯切れの悪い声を発しながら、がしがしと三井は頭をかいた。

遠くで潮騒が聞こえる。
さわりと吹いた風が、己を見上げる男の前髪を揺らした。

「まさかとは思うが、桜木の見舞いか?」
「そんなとこだな。」
「じゃなんでこんな所に座ってんだよ。」

当然と言えば当然なその三井の問いに、ああ、と牧は言いながら視線を雑誌に落とす。
恐らくバスケット雑誌だろうと思っていた手元のそれは、予想に反して、何処かの国の入り組んだ海岸線を鳥瞰で示した写真だった。 青い空と、海面の濃紺が混ざり合う出なく存在する奇妙な静けさを演出した写真を見つめたまま、夕日に照らされてセピア色に染まった 牧は軽く病室を指し示した。

「アレを、見ちまったらな。」
「?」

不思議に思って、軽く空いたドアの隙間から中を覗き見ると、室内から聞きなれた声がした。

『…この天才が…』
『いつか湘北を全国…』
『晴子さんの為なら桜木…』
『…まかせてください…』

その男の声にあわせるように、がんばってね、そうよ、その意気よ、と朗らかな少女の笑い声がする。 ドアの隙間から漏れ零れる、こちらまで赤面してしまいそうな室内の様子に、 あの馬鹿は、と三井は舌打ちをし、そのまま牧を見遣りもせず何処かへ消えた。





「ほれ。」
「?」
「やる。」
「??」

己を見もしないでコーラを突きつける三井を、牧は不思議そうに眺める。すると、また、あーとかうーとか、言葉にならない何かを言った後、 ぶっきらぼうに三井が呟いた。

「一応、俺の後輩だからな。」

それは、三井寿という人物なりの、感謝の表現と言うものらしい。
そうか、と言って牧は笑って手をのばす。受け取ったコーラの缶は冷たくて、それでいて何処か懐かしい感じがした。
海南とは練習試合をしたことがねえな、と三井はプルタブに爪をかけつつ思う。夏の大会が終わって以来、もっぱら陵南との練習 試合ばかりだ。両校の監督同士が先輩後輩、因縁覚めやらぬ、というやつらしいので、陵南と海南はあまり合同練習などはないと聞いている。 新参の湘北は、歯牙にもかけてもらえぬということなのだろうか。 その割りに、陵南の魚住や池上は牧と付き合いがあるようだし、引退はしたが、赤木もいつだったか藤真と牧が公園のコートにいるのに出くわした、なんて 言っていた。そういや、小暮もどっかで牧や武藤と会った、なんて話してたな。
思えば、限られたエリアの中で、頂点を目指して競い合っているのだから、公私にわたって顔を合わす機会も多いだろうし、そうしているうちに 同じ目標に向かって走る同族意識が目覚めても不思議ではない。自分の知らない、そんな彼らの小さな何気ない繋がりの破片に 気付くにつけ、己の空白の2年間を三井は苦い思いでかみ締めている。そして、その中にいる人物…今、己の手渡したコーラを片手に隣というわけでなく、かといって 遠いというわけでもない微妙な 距離にいる牧という存在は、その無駄にしてしまった時間を如実に示している。だから、苦手なのだとそう思う。

「お前、いつ来たんだよ。」
「4時半頃かな。今日は練習無かったからな。」

後ろ向きになりがちな思考を止めるかのように三井がそう尋ねると、牧は意外な時間を口にした。もう、時計の針は6時に近い。呆れて言葉を 返す。

「・・・で、ずっと此処にいたのかよ。」
「まあな。タイミングを掴みかねている。」
「要領わりーな。」
「俺もそう思う。」

そう言って軽く笑った牧と視線が合った。二人はその日、初めて笑った。
鴎だか鴉だかはっきりしない鳴き声が、ひっきりなしに海岸のほうから夕暮れの廊下に届いた。

「何人も、見てきた。」
「何を。」

微かな潮騒の向こうに見える水平線に目をやりつつ、雑誌を閉じて牧は静かに言う。
その制服の袖口からちらりと見える腕時計がたてる小さな音が、思う以上に大きな衝撃となって三井の頭の中をゆっくりと進んだ。

「怪我でバスケを諦めた奴等。」

一番聞きたくない言葉を、さらりとその男は言いのけた。隣に座っているのに、三井は何故かそれを直視できずに居る。無意識に、唇を噛んでいたことに、 ふと気付いた。声は淡々と、よどみなく続いた。

「肉体的にも、精神的にも、回復するには長い道のりだ。特に我慢の利かない奴は。」

やっぱり辛いもんだろう。だから、気になって様子を見に来た。
そう言って牧は天井に視線を戻して、軽く目を閉じた。そのまぶたの裏に何を描いているのだろうか。 きっと、あの写真の、異国の青い海だろう。この男はきっと、俺がじたばたしているような現実とは違う、何か全く違う世界を見ている。 何故だかそんな気がして、三井はかみ締めていた唇を緩めて、やや投げやりに答えた。

「おめーみたいな奴は、当たり負けしねーだろうからな。怪我なんか無縁だろ。」
「それは違うぞ、三井。俺は、何より怪我が怖い。怖いから、鍛えてる。それだけだ。」
「・・・嫌な奴だな、お前。」
「よく言われる。特に、藤真にな。」

一拍空いて、何でかな、と牧は心底わからない、といった感で呟く。だからだよ、と三井は思う。真っ当で、正当で、 誰よりも努力していて、そのくせ自然体で、他校の後輩にまで気を配るイイ奴で。
でも、きっとこの男は真っ直ぐに進めない人間の気持ちはわからない。そんな奴らにとっては、その正々堂々の気配すら凶器なのだということを、コイツは 考えたことすらないのだろう。
だから、だよ。だからこそ、お前と同等な評価をされながら、それでも勝てなかった藤真は、そう思うんだ。三井は藤真に少しだけ同情した。
そして同時に、自分の鬱屈した思いの源が少し解ってすっきりした。結局、クソ真面目な面をしたこの男に起因したことではないのだ。全て、己の側の問題。 そんな単純な結論が、我ながら可笑しかった。
唇の端に浮かんだ笑いを、牧がどのように受け取ったのかは解らなかった。が、少なくともネガティブな捕らえ方はしなかったのだろう。頷きつつ、 穏やかに言った。

「でも、今日着てよかった。桜木は、独りでは無さそうだ。」
「あたりめーだ。俺が先輩やってんだからな。」
「・・・そうだな。」

窓からふわりと風が入ってきた。救急車の音が遠くから徐々に近づいてくる音を聞きながら、三井は何時の間にか、頭の中で焼け付くように 鳴っていた秒針の音が何時の間にか消えていたことに気付いた。コーラの炭酸が、やけに旨く喉の奥を流れていった。





その後、三井と牧は他愛ない話をしながらコーラを飲み終え、病室へと入っていった。
思わぬ来訪者に、桜木は笑ってしまうほど大はしゃぎし、牧はその横に座って向日葵のように微笑む女子高生が、 あの控えめに言ってもとっつきの悪い岩の様な大男の妹だという事実に、しばし言葉を失った。 そんな意外な姿に、なんだコイツも普通の 感覚で驚いたりするんじゃねーかと三井は、「そんな驚かなくてもー。」と拗ねる晴子にしどろもどろで「悪い、あまりにも想定外な衝撃が…。」と更なる墓穴を掘る男を大笑いしながら 見つめた。


気がつけば夕日は空の向こうへ沈み、何時の間にか夜が来ていた。
この2週間後の休日、三井は牧や花形、藤真、池上等と公園の寂びれたコートに立つことになる。








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*Postscript
花道は、案外他校のメンバーからも好かれているという設定。でも、実は一番病室に通ったのは流川だったりしたらいい。
三井は、経験者だけに、花道の怪我は気になったと思う。三井にとって花道は大事な後輩で、自分のした失敗をさせたくない相手。牧は三井にとってはキツイ存在じゃないかな…2年間のブランクという意味を如実に感じさせる相手。