君を想う強い強い気持ち 3
テストのヤマを外した植草が神様って意地悪だと言ったら、福田が真面目な顔をして仏様はチガウぞ、と言ったので笑った。
でも、きっと植草は正しい。神様は、皮肉屋で性悪だ。福田には悪いが、仏様も似たようなものだろう。
運命とか、偶然とか、そういったものも、突き詰めれば"人の力の及ばない"気紛れな存在で、これらもおそらく根性の悪い面をしているに違いないと俺は思う。
例えば、宿題をやっていないときに限って授業中にあてられるとか。
女の子を泣かしている時(泣かすつもりはないのだが、そうなってしまうことだってあるのだ。)に限って、廊下の向こうから越野が現れるとか。
サボりたいなあ、なんて考えているときに、うっかり茂一と眼が合うとか。
会いたくないヤツに、会ってしまうとか。
『嫌いと好きは大差ない』という、福田のじい様経由のありがたい法話を聞いて以来、俺の中のもやもやとした感情の源が少し解かった。
手が届かない存在だからこそ、人は執着する。そんな格好の悪い自分から眼をそらす為に、その存在を"嫌い"と位置づけて納得する。
たかだか16年ちょっとの人生だが、考えてみれば思い通りにならなかったことがどれだけあっただろうか。
俺は、あの夏のIH予選で、牧紳一に負けた。個人技では、とか、一年の年齢差とか、理由はいろいろつけられる。でも、結果は一つだ。
負けた。その現実を笑い飛ばした俺自身が、誰より気にしていたらしい。牧という人物がもし、その二つ名に見合う、帝王然とした態度でいるならばもっと簡単にこの現実を受け入れられただろう。
その上で、いつか必ず、と思えたに違いない。が、違うのだ。コートを出たその男は、静かで、面倒見がよくて、でも強さもちゃんと持っていて、友人にいればいいなと望んでしまうよな…要はイイ奴なのだ。
だから困る。敗北感と劣等感のメカニズムは解かっても、一朝一夕に気持ちの整理が付くわけではない。俺は、彼を"未決"の人物として一時保留した。同じ県下で、監督同士が腐れ縁、実力もそこそこ拮抗しているのだから、練習試合や国体へ向けての選抜チーム合宿でこれからも顔を合わすだろう。
次はもう少し俺も冷静に牧と向き合えるだろうし、そういった時間を積み上げていけば、そのうち、俺の中で彼の位置づけが自然と出来てくるだろう。そう思っていた。
…にもかかわらず。
其処は、俺には全く縁がないはずだった場所で。偶然、来てしまった違和感だらけの空間で。
真っ白な壁は、重々しい色の古めかしい絵で飾られている。
だだっ広い、遮蔽物の無い所で、挙句に入場者も少ないときていては、やり過ごす、ということも出来そうに無い。
こういった場合、俺の高身長は非常に都合が悪い。要は、目立つ。向こうが俺に気付く可能性も高い。
そして、悪いことにこの展示室を抜けなければ、出口にはたどり着かないわけで。
(どーすんだよ、こんな逃げ場の無い所で)
…神様、オレ、なんか気に障ることした?
そんなことを考えながら俺は、内心大きな溜息をついて一時保留とした人物の後姿へと、一歩足を踏み出した。
気付かれるくらいなら、気付かせたほうがいいに決まってるんだ。
「牧さん。」
そう呼びかけると、呼ばれた人はひどく驚いたように振り返った。休日だというのに律儀に制服に身を包んだ彼は、あきれるほど模範生だ。俺には到底出来ない。そんなことを思いながら、他校でも先輩は先輩、と軽く会釈して微笑んで見せた。
すると、彼は、何かを考えるような瞳で眼鏡ごしに俺を見つめた。
ああ、眼鏡なんかかけてるんだこの人。そういえばいつか藤真さんが『なに気取ってんだよテメー!』なんて騒いでたなぁ、あの人、相当理不尽だから…などと記憶を手繰り寄せた次の瞬間、脳裏によみがえる伝説のアレ。知りたくも無いのに、…まあ本人も望んではいないのだろうが…、俺の今最も苦手とする目の前の男はどうやら相当に外見と内面のギャップのある人物のようで、練習試合やら合宿やら、いろんな所で話題を提供してくれるから、必然的に詳しくなってしまうのだ。
「お、俺ですよ。陵南の、」
まさかと思ったが、聞き及ぶその人となりに、この人ならその万一もあるかと思って名乗ろうとすると、牧さんは少し笑った。
「いや、別にお前の名前を忘れたわけじゃない。ただ、ちょっと意外だったからな。こんな所で。」
「俺も、驚きましたよ。牧さんが美術館なんて。」
言った瞬間、しまったと思ったがもう遅い。
「そうらしいな。ウチの連中もよくそう言うんだ。違和感ありすぎ、とかな。」
何でかな、と真面目な顔をして呟くその姿は、コートで対峙する牧紳一という人物とは全く別の生き物に写る。思わず、そこは怒る所ですよ、と言いたくなるが、わざわざ他人を怒らせることも無いかと思ってやり過ごすと、牧さんは絵から視線を離さずに聞いた。
「お前は?」
やっぱり神様は意地悪だ。一番弱みを見せたくない人物に、一番聞かれたくないことを聞かれてしまうなんて。
俺は、半ばやけっぱちな気分になった。ここまでタイミングが悪いとなると、もう開き直って笑うしかない。
「いやぁ、彼女と来る予定だったんですけどね。今朝方、思いっきりフられまして。前売りでチケット買ってたんで、もったいないな、と思って。」
「そりゃ、…残念だったな。」
「まあ、こういうことでもないと、俺、絵とか見ないっすから。」
「気分転換?」
「どっちかっていうと、暇つぶしです。」
「練習は?」
「勘弁してくださいよ…。」
大きな溜息をついてそう答えた俺を横目で見て、牧さんは、越野は苦労するな、呟いた。
…おいおい、越野。何、しゃべってんだよ…。
小言が多い越野が最近よく言う台詞は『海南の牧を見習え!』だ。ついこの間まで、あのダンプカー野郎、なんて言っていた癖に、たった2,3回の練習試合ですっかり手懐けられてしまったらしい。
それもこれも新キャプテンとなった俺がサボりまくって越野を怒らせている故の、云わば自業自得なのだが、それでも何とか話題を変えようと試みる。
「…何、見てたんすか?」
それは純粋に興味だった。健全な男子高校生が、休日の午前中に一心不乱に絵を眺める、なんて俺の想像の範疇を超える。そうさせる何かが、この絵にはあるのか、とそう思った。
「何、見てるように見える?」
「まあ、…絵、っすね。」
「正解。」
なんとなくすれ違っているような感を否めない会話をどうにかこうにか進めていくと、彼は選択授業で美術を専攻していて、この展覧会は
授業の一環で訪れるはずだったが部活でそれがかなわず、課題の感想文提出の為に土曜日の今日、ここに来たのだということが解った。
ただ、義務としてしょうがなく此処へ来たという雰囲気ではない。彼の大人びた風貌がそうさせるのかもしれないが、その横顔から伺い見る限りでは、非常にこの
空間を楽しんでいるように察せられた。現に、彼はずっとその一枚の絵の前に立ち、他の絵を眺める素振りすらない。
「好きなんすか?」
「?」
「この絵。」
単刀直入に聞いてみる。
その絵が示すのは、何処かわからない国の、薄暗い室内。
大きな窓にかかるカーテンが、風にゆれて、その向こうにあるはずの太陽がやわらかく室内の様子を照らしている。人待ちげに置かれた椅子と申し訳程度に置かれた鏡、画面の端にその姿を少し見せただけの絨毯。
暗い板張りの床が殺風景で、飾り気の無い部屋。特に、眼を引くものは何も無い。
「好き、か…どうかな。」
軽く小首を傾げるようにすると、眼鏡が光を反射して彼の瞳が白い煌きの向こうへ消えた。
「でも、この絵なら、ずっと見ていられるかな。どういえばいいのかな…暖かくて、幸せ、というか…」
難しいな、とそう付け加えて、牧さんは黙った。
暖かそうなものも、幸せを示す対象も、その絵には無いというのに。彼はそう言った。
「それだけ気に入ったんなら、きっと好き、ってことでしょ。」
「そうか?」
「でなかったら、ずっと見てらんないでしょ。」
「そうかな?」
自己に問いかけるように、どうだろうと呟く。
余り言葉の多い人ではないこと思っていたが、それは違っていた。彼は、言葉を大切にするのだ。紡ぐそれが、ちゃんと自分の思うことを表しているかどうかを
ストイックに考え詰める。やああって、彼は探す言葉にたどり着いたらしい。迷いの無い言葉が放たれた。
「この絵が好きと言うより、絵を見ている時間が好きなのかも、な。」
『釣りが好き、っていうより、海を見てる時間が好きなんだよ。』
何で釣りなんだよ、という越野に俺が出した本音。釣れても釣れなくても良い理由は、釣り自体が独りになる為の言い訳だったからだ。
だからこそ、彼の言ったそれは、不思議に俺の心を動かした。激震ではない。電車が動き出すときの、ゆっくりとした、これから何処に向かっていくのだろうと心が躍るような、そんな心地良いムーブメント。
至極単純な、本質的な問いが降りてくる。
今、俺の前に立つ、俺に初めて敗北という苦い味を味あわせた人物は、一体何を、好きで、何を嫌いなのだろうか。何をもって嬉しいとか、悲しいとか、そんなことを感じたりするのだろう。
それを知りたい。解りたい。純粋な興味だ。
そして、俺がこの人を解かる方法はたった一つ。遠回りをしたが、最初から、これしかなかったのだ。
「牧さん。」
「何だ。」
「バスケしませんか?」
「お前、練習は?」
「チーム練習するより、俺と1 on 1の方が、面白そうじゃありません?」
「約束はな、した順番に守るもんだ。それに、今日は、清田の自主トレにも付き合うと言ってあるから。」
律儀で、真面目で、まっすぐで。この人なら、こう答えるだろうという、模範的な回答。
どんどん面白くなっていく。そんな気がする。
「じゃ、いつならOK?」
牧さんの顔を覗き込んでそう聞きながら、これじゃまるで遊びに行くかの様だと思うが、他に聞きようもないから致し方ない。
この手のタイプは何事も、小細工無しが一番良いのだ。
ゆっくりと顔をめぐらせて、今日初めてこちらをまともに眺めた彼は、にやりと笑って言った。
「引退したら。」
「ウソォ!」
「真に受けるなよ…。」
俺を呆れた顔で見ながらそのうちな、と牧さんは笑った。
つられて俺も、笑う。理由がわからないが、なんだかとても面白かった。場所が場所だけに、大っぴらに声をたてて笑うわけにはいかず、かといって一旦始まった笑いの波はお互い引いていきそうに無い。監視員の冷たい視線を浴びながら、俺たちは、抑えられない笑いを抱えて、そそくさと美術館を後にする。最後の最後まで、彼は「早く練習に行け」と真面目な顔をして俺を急かした。
独りになって見上げた空は、すっきりと青い。そんな普通のことが嬉しいのだから実に奇妙だが、でも、心地良い。
絵の中のカーテンを揺らした光溢れる風が、きっと俺にも届いた。そう思って俺はチームメイトの待つ体育館へと急いだ。
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*Postscript
牧は仙道とは全く違う意味で、マイペース型。この2人のくだけた会話を書くのは何気に楽しい。
とりあえず、第一幕はこれで終了です。また、続きが書きたくなったら別タイトルでと思ってます。