君を想う強い強い気持ち 2



自己とは、永遠の謎だと思う。
自分と一番付き合いの長い人格は間違いなく自分自身であるはずなのに、その自分が何を感じて、何を考え、そして それが何故なのか、なんていう簡単なプロセスすら、説明が付かない。

例えば、これが、何が得で、何が損で、どう立ち回ればベターか、という実質的な質問ならば話は別だ。こういった問いには、 俺の脳は呆れるほど単純に、そして瞬時に答えをはじき出す。例えて言うなら、数学の問題を解くようなものだ。 方程式があり、その定義に数値を正しく乗せさえすれば、正解。

天才なんて呼ばれる、チームのエースとして。カッコいい仙道君として。サボってばかりだが憎めないキャプテンとして。 俺は、どうすべきか。至極簡単なことだ。その"仙道彰"なら、条件反射で提供できる。 今までそれで困ったことは無いし、周りを困らせたこともない。無いと、思う。 逆に、俺が勤勉で、スポーツも成績もトップクラス、面倒見がよくて、牽引力と自己主張を併せ持った男だったらどうだろう。案外、みんなウンザリするんじゃないかと思う。あの越野ですら、喜ぶのは一瞬だろうな。あいつなら、「そんな仙道いらねー!」くらいは言いかねない。
集団の中で、自分の立ち位置を正しく把握して、求められる自分であるということは恥じることではない。特に、バスケットはそうだ。個々のプレーヤーがどれだけ優れていても、チームとしての総合力が下回れば負ける。実際、俺はこの夏、その覆しがたい原理を痛いほど味わった。だから、こうやって、周囲と折り合いをつけながら生きていくことは間違いじゃないと思う。
だが、俺の自己はどうだろう。求められる"仙道彰"を引き出す俺自身は、何を嬉しく思い、何を悲しく思い、何に怒りを感じて、何を欲するのか。思考や計算の入り込む余地がない深層で、俺は一体何を感じているのか?そんな簡単なことが、解からなくなってしまったように思う。
発端は、あるプレーヤーに出会ったことだ。俺と、同じ思考をする男。そして、俺より一手先を読んだ男。自惚れかもしれないが、そんな人間が居るとは思わなかった俺にとって、その人物の存在は、俺の自信や矜持を根底から揺さぶる脅威となった。だから、その人物を嫌うことにしたのだが(そしてそれに納得すらしていたのだが)、それすら見越されているようでどうも収まりが悪い。挙句の果てに、好きだとか嫌いだとかの感情は、結局は執着という欲に他ならないという、極めて単純明快なロジックを福田に告げられて以来、俺の思考は完全に混乱に陥った。

他人に対して、こんな強い感情が湧いたことは無かった。そして、その感情の出所も行き先も解からない。そんな、方程式の通用しない問題は、一体どうやって解けばいいのか。その辺りを紐解いていくうちに、どんどん自分という名の迷宮に落ちていく感じがする。

俺は自分で思う以上に、複雑で屈折した思考を持った男らしい。はっきりしているのは、それだけだ。
突堤の先に腰掛けて釣り糸をたらしながら、そんなことを考える。視線の先を、漁船がゆっくり横切っていく。空はこれでもかというほど青く、バランスよく浮かんだ白い雲が目に眩しい。俺が何を考えていようがいまいが、世界は今日も正しく進んでいくんだなあと思うと、思考のスパイラルをぐるぐる回っている自分がやけに小さく見えるが、まあそれも俺だと諦める。気付かなければ楽だったかもしれないが、気付いちゃったんだからしょうがない。その辺りの精神構造は、いたって健全だと思う。起こってしまった事をあれこれ言っても仕様が無い。 その結果と向き合うだけだ。正直言うと、避けたい作業だが致し方ない。流れる雲を見つめつつ、小さく溜息を付いた。
俺は釣りが好き、と言うことになっている。事実、高校に入学して以来、釣りにはよく来ているが、実は釣果はどうでもいい。独りで海を眺めるということに意義がある。釣りは、そのための言い訳のような物だ。
東京には、海が無い。海だったところはあるのだろうが、もう別物になってしまったように思う。だから、俺はよくビルの屋上で空ばかり眺めていた。視界を遮る物のない、単調な、そして雄大で静かな空間。その一部となることが俺にとっては…、

「てっめー!また此処かぁっ!!」

いきなり背後から浴びせられた罵声に、思索の海から引き上げられる。時計は10時15分を周ったところ。集合は10時、痺れを切らした田岡サンが怒って越野を怒鳴るまで5分、その越野が体育館から此処に来るまでに要する時間は10分。今日も、世界は正しく周っていることを再確認して俺は肩越しに振り返る。

「何、越野。もう来たの?」
「もう、じゃねー!練習始まってんだぞ。」
「でも、天気もいいしねぇ…日曜日だよ、今日。カミサマだってお休みした日。」
「俺たちにゃ、誕生日も命日もねーんだよ!」
「…それ、ちょっとヤダなぁ…。」

ぼやくようにそう言って水平線を眺める。
すると、いつもなら羽交い絞めにしてでも俺を体育館へ引っ張っていく越野が、すとん、と俺の横に座った。めずらしいなと思いつつ、憮然、と表現するしかないような苦りきったその横顔を眺めて、俺は小さく問いかけた。

「越野も、サボり?」
「ばっっ!ちげーよ!」
「練習、始まってるよ?」
「知ってるよ!!」

あーもう、やってらんねー、と海に向かって越野は叫ぶ。
越野は、優しい男だ。口は悪いし、乱暴だが、本当に人を傷つけるようなことはしない。
ゆえに、言い辛い話題に触れるのは、こいつにとってはものすごく勇気がいることなのだということを、俺は知っている。だから、先を促さずに、越野の言葉を待った。
やああって、越野が体育座りをした膝に軽く顎を乗せたまま、ぽつりと言った。

「なあ、仙道。」
「何?」
「お前、後悔してねえ?」
「何が。」
「…陵南に来たこと。」

竿から垂らした糸の先で、奇抜な色をした浮きが、ぷかりぷかりと波に揺れる。
思ってもいなかった越野の言葉に、俺は一瞬返答に困った。

「…何で?」
「いや、なんつーかさ。お前なら、他にも行くところあったんじゃね?」

もっと実績があって、お前の技量をちゃんと使いこなせるチームの基盤があるところ。例えば、翔陽。例えば、海南。
越野はそう言って、手近にあった石を水面に軽く放った。

「越野。俺がもし、例えば…海南に行ってたとして…サボらず毎日練習に出れたと思う?」
「…思わない。」
「海南は厳しいだろ、練習以外もさ。何もかもカッチリしてて、模範的。そういうの、何ていうか…俺、馴染めねえと思うんだ。」
「無理だな。」
「バスケは好きだけど。俺は俺らしく在りたい、っての?」
「おお。」
「それに、海南には越野がいねーじゃん?俺を迎えに来てくれたり、宿題見せてくれたりさ。神なんか、冷たそうだもん。」

最後に明るくそう付け加えると、なんだそりゃ、と越野はぶすっとした面で言った。お前の面倒見るために俺は居るわけじゃないぞ。そう毒つきながら肘打ちをする越野に、俺も軽くやり返す。 げしげしと一頻り小突きあって、互いに海を眺めた。誰かと、独りの時間を分かち合うのは得意じゃない。でも、この一時は、悪くないなと俺は思った。

(…偶には、いいよな。)

そう思って、深呼吸する。そして、言った。

「してねーよ。後悔、してない。」

打算も、立ち回りも、思惑も何も無い。それは、俺の素直な気持ちだ。それをちゃんと言葉に出来るのは、俺が、後悔することにはならない、そんなことにはさせないという自負と自信を認識しているからだ。
越野は、少し目を伏せて、水面掠めるように飛んだ鴎の作った波状を黙って見ていた。

「それに俺、追われるより追う方が、燃える。」
「…そか。」
「もちろん、ボールより女の子追いかけてたいんだけど。」
「とりあえず、今はボールに集中してくれ。このままじゃ、茂一が怒り狂って狂い死にするかもしれん。」

俺は、答えなかった。白黒はっきりした答えを出すのも、未来の何かを約束するのも苦手だ。何時もどおり、へらりと笑う俺を、どこか冷めた目で越野はちらりと見た。
今日もボウズだな、とぼやきつつ俺は竿を上げた。片付けをする俺を、越野がじっと見ているのを背中で感じる。無言のその視線が雄弁で、少し居心地が悪い。だから、聞いた。

「俺もさ、質問していい?」
「んだよ?」
「何で急に、そんなこと聞くの。」

ああ、と越野は視線を海へと転じ、片手でがしがしと頭を掻きながら言った。

「なんつーか…遠いなあと思ったんだよ。」

その言葉が、俺の心の底の深淵をひやりと撫でた感じがした。俺は、内心大きく驚きつつ、越野を見つめる。

「お前、時々遠くに行っちまうような感じがする。上手く言えねーけど。距離がある、っての?」
「…そう?」
「特に、IH予選で負けて以来。」
「へえ…。」
「だから、陵南に来たこと、後悔してんのかなって。」

…まいった。
俺は、自分で思う程、冷静でも演技派でも無いらしかった。

「すげーな、越野。」

当たらずとも遠からずの越野の洞察に、俺は感嘆の溜息を吐く。すると越野は、からりと笑って立ち上がった俺を見上げた。逆光になった所為だろうか、眩しげに目を細めて自信たっぷりに言う。

「あったりめーだ。一日、どんだけ一緒にいると思ってんだよ、俺達。」
「まあ、そうだね。」
「それに、バスケがなくったって、チームメートじゃなくったって、きっと俺はお前が大丈夫か気になる。フクちゃんだって、植草だってそうだぞ。」

海から柔らかな風が吹いて、Tシャツの裾をはたはたと揺らした。越野が続けた。

「池上さんだって、魚住さんだってきっとそうだ。」
「そうかなぁ。」
「魚住さんは、今度仙道に会ったら三枚におろしてやる、って言ってたけどな。」
「…うわぁ…」

当分、三年生の居る校舎には近づかない方がよさそうだなぁ…。
そう思いながら、ぐぐ、っと伸びをする。空は青くて、天気もよくて、案外周りにも恵まれていて、それなのに俺だけが何だかやけに欲張りで不思議な罪悪感を伴っている。

俺は今、越野がうらやましい。越野は正直で素直で、傷つくことも多いがだからこそ心根が優しくて、大事なことをしっかり解かって生きている。 俺は、どうだ。余計な手練手管や言い訳ばかり身について、肝心なことがぽっかり抜けている。格好悪くても、俺はお前を心配してるぞ、と真正面から言える強さが俺には無い。
強くなるには、まず弱い自分を受け入れることだ、と言ったのは誰だったかな…。そんなことを頭の隅で思った。

「告白しよっかな。」
「誰に?」
「越野に。」
「はあああっ???お前何言ってんの???」

素っ頓狂な声を上げつつ、弾かれた様に立ち上がって顔を赤くしたり青くしたりする越野は面白い。別に愛の告白するわけじゃないよ、と言ったら、当然だと叫んで俺の尻を蹴る。続いて飛んでくる手を交わしながら俺は笑った。つられて越野も笑い出す。そして、その笑いの波動が収まったのを見計らって、告げた。求められている仙道彰ではない、俺の、俺の中の小さな叫びを。

「越野宏明君は、正しいです。仙道彰は、今、ちょっと遠いところに居ます。何故なら、今の俺はものすごくカッコ悪いからです。それを見せたくありません。」

見つめる水平線の輪郭は、どこか霞んで遠く見えた。それは、俺の心模様のように曖昧で、漠然とした不安と焦燥を駆り立てる。それでも、俺は、俺の中にしっかりと根付いたその感情の源を言葉にしたかった。今しかないとそう思った。そして、その内容は、実はずいぶん前から明らかだったのだ。ただ、俺自身がそれを認めたくなかっただけ。ただ、それだけのことだと言い切れるほど、俺は強くなかった。
越野、と名を呼んで、俺は静かにその言葉を紡いだ。喉が焼け付くように熱く、声は自分の物では無いように嗄れていた。
「負けたことが、悔しくてたまんねぇ…。」

今、自分がどんな顔をしているのだろうかと思う。笑っているか?それとも、らしくなく真面目な顔をしているのか?
見えない己の顔は、それでも越野から言葉を奪うのには十分だったようだ。絶句、という状態の人は、これほどまでに悲しい顔なのかと、越野の大きく開いた瞳を見据えながら俺は思った。瞬きすら忘れてしまったその瞳のまま、越野は仙道、と呟いた。

「こんなの初めてなんだよ、俺。バスケットだけは、思い通りになってきたからさ。」
「…次があるだろ、俺達。これで終わりじゃない。次は湘北にも、海南にも、翔陽にも負けない。そうじゃねえの?」
「試合に勝てない、とかじゃないんだな。勝敗だけなら、次は自信がある。でも、俺の思うように行かないんだよ、…あの人。」

勝てる気がしない、と言った方がいいのかもしれない。そう俺は小さく付け加えた。
それは、プレーヤーとして、といった意味以上の物を内包しているような気がする。バケツと竿を抱えて、じゃ行こうかと促すと、越野が生返事をしながら聞いた。

「誰だよ?」
「解かってるだろ?」
「…ダンプカー?」

ああそんなとこ。そう答えて俺は突堤に背を向け歩き出す。
海岸線を走る道路まで出ると、思った以上に交通量が多い。道路を渡るタイミングを計るべく右手の方を眺めていると、越野がやけに真面目な声で言った。

「ま、超えられるかな、じゃ、超えられねーわ。超えるって思わなきゃ。なんせ相手はダンプだからな。ありゃ、ヒトじゃねー。」

越野は前回の試合で吹っ飛ばされて以来、彼を名前では呼ばなくなった。その辺りが、越野らしいと言うか大人気ないというか、いずれにせよ面白くて、止せばいいのに俺は悪戯心が抑えられない。

「そこまで言うほどゴツくないと思うけどなぁ。てか、お前の鍛え方が足んないんじゃね?」

そう言って、勢いよく越野のTシャツを摘んで腹を覗き込むと、何すんだテメー、といつも通りの罵声と共に頭を強かに殴られた。歩道を歩いていた女の子達が、そんな俺たちを指差してくすくすと笑っているのが目に留まった。

「うっわ、うすっぺらい腹筋だねぇ。」
「う、うるせーよ!」

もうお前の面倒はみてやらねえとか、心配して損した金返せとか、顔を真っ赤にしてぎゃいぎゃい喚く越野の声を聞き流しながら、俺はやけにすっきりした心持だった。

認めてしまえば、簡単なことだったのだ。
劣等感と敗北感。そして、憧れ。そんな感情、誰にも抱いたことが無かった。だから、そんな自分自身を受け入れたくなかった。

(俺が、否定したかったの俺自身、ってことか。)

そして、その否定できない俺の中の小さな、それでいて確実に其処にある願望。それは究極的には、No.1と呼ばれる人物に追いつくことでも、勝つことでも、ましてやその人を否定することでもない。

俺は、その人物を解かりたい。そして、俺を解かって欲しい。他の誰でもない、あの人に。
あの人でないと、駄目なのだ。理由なんて、正直言って未だわからない。でも、突き詰めてみれば、たった、それだけのことだった。

「俺って、ホント欲張りで我侭だなあ…。」

ぼんやりそう呟いて笑った俺を見て越野が、今更何をという顔をして、さっさと歩けよとせっつく。
海の音が、背中から俺たちを微かな風と共に通り過ぎた。

俺の中の風景が、少し変わった気がした。



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*Postscript
悩める男は、いい男。仙道は、いろんな意味で賢く、だからこそ臆病で傷つきやすいのだと思う。
越野は、男らしのだと思う。突き放す優しさも察して黙って受け入れてやる優しさも知っていそう。
そして…続きます。